【 いのちの 大きさ 】〜 生きている 生かされている 〜
2020年(令和2年)の夏は何を残しただろう。突然降って湧いた新型ウィルスで東京オリンピック・パラリンピックも1年延期。甲子園の高校野球も中止。毎年当たり前に行われてきた夏祭りも花火大会もなくなった。高速道路の大渋滞もギュウギュウ詰めの帰省ラッシュもない。(毎年同じニュースで言うこともおんなじだと笑って見ていたが…)けれども75年目の終戦記念日は巡ってくる。そして今になっても初めて知らされる事実がまだある。本当に残酷な事は話せない。自分だけが生き残って申し訳ない、合わせる顔がないと友を弔いながら静かに生きていく。沖縄戦、広島・長崎の原爆、外地での惨劇、抑留、空襲での民間人の犠牲…
そんな悲惨な体験を直接話せる人も少なくなってきた。コロナ禍、水害、酷暑で今年は特にいのちを意識することが多く、戦争の話がこころに浸みた。生存と死は紙一重だ。幸運か不運か。運命と言えば悲し過ぎる。助けられた命もあった筈だ。戦争がなければ… もう少し早く終わっていれば… 。今はどうしようもない。ただこの不幸な体験を繰り返さないために、戦争の非情さ悲惨さ虚しさを伝えていかなければいけない。取り戻すことができない大切な命の為に…
長崎原爆の惨状を伝える少女の写真に写り、ご自分も被爆され、最近までお元気だった[龍智江子さん]が終戦の日の今年8月15日にお亡くなりになったのは何か大きなメッセージを伝えられた気がしてならない。90年の大変な人生をかけて残されたものがあまりにも大きい。龍さんの戦争はこれでやっと終わったのだろうか?… ありがとうございます。お疲れ様でした。ご冥福を心よりお祈りします。
【 遠い故郷に溶け込んでみた 】
今年は特別な夏だ。どこに行っても人が少ない。工夫をすれば、考えを巡らせばこんなに楽しめる夏も二度とない!家の掃除、墓掃除。墓参りもゆっくりできる。40年ぶりに荒尾市民プールに行って泳いだ。210円だ。(僕は大学時代の夏休みここで2年間プール監視員のアルバイトをやった。日給1200円だったのを今でも覚えている)朝早く行くとほとんど人もいない。デビュー当時ここでは〈水上カーニバル〉と言うにぎわったイベントがあった。そこで歌った思い出がある。
2020年(令和2年)の夏は何を残しただろう。突然降って湧いた新型ウィルスで東京オリンピック・パラリンピックも1年延期。甲子園の高校野球も中止。毎年当たり前に行われてきた夏祭りも花火大会もなくなった。高速道路の大渋滞もギュウギュウ詰めの帰省ラッシュもない。(毎年同じニュースで言うこともおんなじだと笑って見ていたが…)けれども75年目の終戦記念日は巡ってくる。そして今になっても初めて知らされる事実がまだある。本当に残酷な事は話せない。自分だけが生き残って申し訳ない、合わせる顔がないと友を弔いながら静かに生きていく。沖縄戦、広島・長崎の原爆、外地での惨劇、抑留、空襲での民間人の犠牲…
そんな悲惨な体験を直接話せる人も少なくなってきた。コロナ禍、水害、酷暑で今年は特にいのちを意識することが多く、戦争の話がこころに浸みた。生存と死は紙一重だ。幸運か不運か。運命と言えば悲し過ぎる。助けられた命もあった筈だ。戦争がなければ… もう少し早く終わっていれば… 。今はどうしようもない。ただこの不幸な体験を繰り返さないために、戦争の非情さ悲惨さ虚しさを伝えていかなければいけない。取り戻すことができない大切な命の為に…
長崎原爆の惨状を伝える少女の写真に写り、ご自分も被爆され、最近までお元気だった[龍智江子さん]が終戦の日の今年8月15日にお亡くなりになったのは何か大きなメッセージを伝えられた気がしてならない。90年の大変な人生をかけて残されたものがあまりにも大きい。龍さんの戦争はこれでやっと終わったのだろうか?… ありがとうございます。お疲れ様でした。ご冥福を心よりお祈りします。
【 遠い故郷に溶け込んでみた 】
今年は特別な夏だ。どこに行っても人が少ない。工夫をすれば、考えを巡らせばこんなに楽しめる夏も二度とない!家の掃除、墓掃除。墓参りもゆっくりできる。40年ぶりに荒尾市民プールに行って泳いだ。210円だ。(僕は大学時代の夏休みここで2年間プール監視員のアルバイトをやった。日給1200円だったのを今でも覚えている)朝早く行くとほとんど人もいない。デビュー当時ここでは〈水上カーニバル〉と言うにぎわったイベントがあった。そこで歌った思い出がある。
30年ぶりに地元の山〈小岱山〉に登ってみた。(本来は小代山のはずであると思うが、いつの頃からか“岱”に変わっている?)ここいらで育った子供たちは必ず1度や2度は登ってるはずだ。頂上からの眺めは絶景だ。酷暑の昼間、僕のような変人2人とすれ違った。不要不急の外出をしてしまった!それでも幼い頃の気持ちに戻り、遠い昔を思い出し、なかなかの貴重で贅沢な時間を過ごすことができた。こんなことが出来るのも元気なうちだ!
母は昭和20年7月26日から27日にかけての荒尾の空襲で、自宅は全焼し、焼夷弾の被弾で生死をさまよった。17歳の時だ。(母の旧姓は小代です)医者は見放したが、元気で長生きし体の中に3つの破片を持ったまま2年前に亡くなった。父はあと3ヶ月で出兵するところだった。同じ17歳だ。玉名中学に通っていた。父の兄は戦争で命を落とした。両親から勤労奉仕の話をよく聞かされた。父は《東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所〉、母は《三井化学大牟田工場》染料部に行っていた。空襲警報で防空壕に避難したり、軍事教練の話も聞いた。2人が命をつなぎ、出会ったことで僕は命をいただいた。多くの奇跡が重なって僕は今生かされている。ありがたく自由に生きることが許されている…