2023年9月30日土曜日

【 絆カフェいそべ 】 〜 高台に移転した人たちも… 〜 9/25

 【 絆カフェいそべ 】 〜 高台に移転した人たちも… 〜

かつてここには広々と広がる田畑と住宅街が広がっていた。そこに住んでいた人たちは全てをながされ、大切な人を亡くし高台に移住した。ここに小さなカフェがある。ささやかな交流の場だ。ここでのライブは2回目になる。チキンカレーが美味しい!新地の駅はズタズタだった。今は素晴らしい駅とホール、ホテルもできた。復興公園が素晴らしい。お世話になった皆さんにご挨拶に立ち寄った。南相馬もそれぞれに頑張って復興に向け歩き出している。相馬の[野馬追]を一度見たいと思う。皆さんお元気で、涙が出るほど嬉しかった❗️その向こうには静かな海が見守っていた…











































2023年9月27日水曜日

【 宮城県亘理郡山元町花釜地区 】 〜 あの日がよみがえる 〜 9/24

 【 宮城県亘理郡山元町花釜地区 】 〜 あの日がよみがえる 〜

宮城県の東南端の太平洋に面したのどかな町です。人口1万人を少し超えるくらいの町で637人の方が亡くなりました。想像を遥かに超える状況の中で、誰もが必死に命を守りましたが、2台の幼稚園のバスが流され、8人の園児1人と先生が亡くなりました。豊かな土地には水田や畑が広がり、そのため3.6kmほど内陸部まで津波が押し寄せ、町の4割近くが被災し、花釜地区は全域が水に浸かりました。1000人ほどの住民の皆さんは、教訓を伝え、将来の津波の被害を最小限にするために、毎年町の防災訓練に合わせて避難訓練を続けてらっしゃいます。海の近くにあった[中浜小学校]は震災遺構としてそのままの姿を残してあります。皆さんの顔がわかるほどの花釜地区で今回のコンサート開催にあたり、骨を折って下さった高橋誠一さん、行政区長の渡辺弘孝さんには大変お世話になりました。山元町の橋元伸一町長さんもお忙しい中顔を出して下さいました。暑い中足を運んで下さいましてありがとうございました。河北新報の橋本記者さんにもお世話になりました。














▲9月24日花釜区交流会館に来てくださって、残って集合写真に写ってくださった方々… この中には、僕の姉の住む千葉県酒々井町から山元町に移り住んだ方も来て下さって、もう20年ほど前に、姉の“Uー子”のシャンソンコンサートに度々来て下さって、時々ゲストで参加してた僕のことも強烈に覚えて下さっていて、「熱情」をリクエストして下さいました!もうびっくり❗️こんなこともあるんですね‼️ 嬉しかったです❣️ 〜
















2023年9月26日火曜日

【 僕はアイドルになった???】〜 父や母のような皆さんの前で! 】 9/22 郡山

 【 僕はアイドルになった???】〜 父や母のような皆さんの前で! 】

いつかは通る道です。長い人生を生きてきて、人生の最終章を思い出を紡ぎながら、穏やかに心豊かに終われたらと思います。郡山の敬老施設でのコンサートは震災復興施設[おだがいさま]を含めるとも5〜6回来ているでしょうか?懐かしいお顔も見えました。90代の方は、ちょうど僕の両親のお年です。母との突然の別れから5年半。父を送って年が明けると2年。生まれてからずっと一緒にいた両親がいなくなるとぽっかりと心に隙間が空いたままです。ああすればよかった。こうすればよかったのにと言う思いは残ります。僕ももう高齢者になりましたが、父や母にできなかった孝行と感謝の気持ちをせめて元気に過ごされてるお父さんお母さんに少しの間楽しい時間を過ごし、喜んでもらえたらと思います。皆さんの笑顔と楽しそうなお顔を拝見すると、こちらの方が励まされ元気をいただきます‼️ どうぞお元気でね❗️また会いましょうね❗️ありがとうございました❣️(お写真は許可をいただいて載せさせてもらいました)






































2023年9月25日月曜日

【 海岸線のまち 復興物語 】〜 心の復興とは… 〜  9/20-22

 【 海岸線のまち 復興物語 】〜 心の復興とは… 〜

釜石からそぼふる雨の中、リアス海岸を通り南へ向かいます。復興はそれぞれです。その町に合った復興のかたちがあります。住民の総意とはいかなくとも、早い復興が望まれたし、被災された方の生活、将来の人たちの命を守ることが最優先でした。そのため無料のすばらしい復興道路はできました。至る所が高い堤防や防潮堤で守られています。すっかり海が見えません。「津波が来ても見えない!」という声もあります。避難所から仮設住宅へ。その後復興公営住宅や高台移転。でも、元の姿に戻ることはほとんど所でできませんでした。故郷に帰らない、戻れない人も多くいらっしゃいます。新しい仕事で町の復興を❗️と言う夢や情熱を持った若者も県内外から結構いますが、全体は人口減少、高齢化が進んでいます。常磐線や三陸鉄道も変わりました。途中再開できない所はバスに変わっています。災害当時の様子や復興までの流れを展示したメモリアルホールも各地にあります。慰霊碑や災害遺構もあちこちに見られます。よく[心の復興]という言葉が使われますが、“心の復興”とは何でしょうか? 何もかも受け止めて、乗り越えて、憂いなく、穏やかに日常を暮らせることでしょうか… 

12年半たっても時が止まったままの方、心の傷が癒せない方もまだまだいらっしゃいます。今でも突然当時の記憶が蘇り、悲しくなり涙が出てくると話されます。もう故郷の事は忘れた、故郷には帰らない!そういう方の一方、新しいまちづくり、祭りの復活!コミュニケーションを築こうと前向きに進んでいかれてる方もたくさんいらっしゃいました。お互い元気での再会に祝杯をあげます。ご馳走で歓待して下さいます。コンサートには、はじめての方も多いです。皆さんの笑顔と喜んでくださる姿を見て、僕の方が励まされ元気をいただきます。12年が経って区切りをつけようと思ったのですが、元気なうちはまた会おうね❗️飲もうね!歌おうね!また歌いに来てくださいね❗️そんな言葉をいただくと、元気でいて下さい❗️また来ます❗️来年会いましょう❗️毎年会いましょうね❗️そんな言葉が溢れてきて、多分区切りはつけられないような気がしています。12年一区切りですが、また新しく始まるような気がしています…