2015年4月29日水曜日

山に囲まれた日本の真ん中に…

【 山に囲まれた日本の真ん中に…】 〜 荘川桜を訪ねた二日間です 〜
 4月28日の朝、衝撃の、感激の、奇跡の[JR東海の皆さん]との再会の熱も冷めないまま、まずは思い出深い【郡上八幡】に会いに行きました。ここは《さくら道》を始めた三銃士[辻田宣子]さんと[山下さつき]さんの故郷です。2人は学校の同級生でした。2001年の5月、荘川桜と佐藤良二さんの人生とに出会い、その歌『てんごの夢』が生まれ、そして第1回目のさくら道バスツアーを始めた時が皆47歳でした。佐藤良二さんが亡くなった年と奇しくも同じでした。そしてその“さつき“ちゃんは、1回目のさくら道バスツアーに息子さん達と一緒に参加した10ヶ月後、天に召されました。ひょっとして自分の死期を感じていたのでしょうか…。47歳でした。“さつきちゃん“のおかげで郡上八幡でコンサートを開くこともできました。素敵な人達との出会いも用意してくれました。とても行動的で人懐っこく、心底心根が優しい、僕は今思うと“佐藤良二さん”のような人だった気がします。郡上訛りのあったかい話ぶりと、包み込む微笑みが今も忘れられません。郡上八幡に初めて来たのは27才の夏でした。当時所属事務所の“鷲見聡”さんの故郷で、「郡上踊りを一度見においでよ!」そう言われて訪ねて、すっかり《郡上踊り》の虜になってしまいました。“上田酒屋”さんには必ず立ち寄ります。川上文具店さんにもお世話になりました。喫茶店“チロル”にもよく行きました。そしてなんといっても橋のたもとの“みたらし団子屋”の牧野さんご夫妻です。ご主人はもうなく亡くなってしまいましたが、いつもおいしいみたらし団子をご馳走になりました。本当に自分の故郷のように、たくさんの思い出が詰まっている街です。途中、何度も立ち寄ったこのコースでは外せない絶景地[ひるがの高原サービスエリア]に立ち寄りソフトクリームを食べ記念写真を撮り再び出発。
 高山に早めに着いたので15分ほどで行ける[臥龍桜]を見ることにした。飛騨一宮駅舎からも見える樹齢1100年の堂々とした見事な桜です。満開から5日ほど過ぎて今は花びらが風に舞い、深緑に包まれて上品な姿を見せてくれていました。帰り際、見事な枝垂れ桜誘われて偶然にも見つけた直ぐ側の[飛騨一宮水無神社]に立ち寄りました。由緒ある神社で立派境内には大きなヒノキが何本もあり、自然にねじ曲がった“ねじの木”のいわれが面白い。やはり“おみくじ”はいただくでしょう。今回は右手でじっくりとかき混ぜて、心を無にして引かせていただきました。果たせるかな、また《大吉》をいただいてしまいました。ホントに…我ながら…自分の運命が…恐ろしくもなります… 何かがあるのだろうか…
高山の夜は前日から泊まる事が出来た12名での大宴会となりました。“寿楽久”の魚は天下逸品でした。仕上げは高山ラーメンです。夜風に吹かれながら宮川沿いを歩いて帰りました。
次の朝は名物[高山の朝市]です。36年前からずっとお世話になっていた喫茶“モリー”さんは既に無く、“ぼくんち”と言う名前に変わっていました。古い町並みも赤い橋の上も9割ほどは中国のお客さんで、随分町の雰囲気が変わっていました。今は名物のうどん屋さん[新井こう平うどん]で働いていると言う、モリーの宮腰さんのご夫婦に3年ぶりに会うことができました。体調を崩されたりいろいろあったみたいですが、お互い元気で、笑顔で再会できて、本当ありがたく、嬉しくて、感動で胸が熱くなりました。出会った頃はみんな20代だったんだよな〜。
その後街を見下ろす高台にあるバスツアーで2度泊まったことがある[高山観光ホテル]へ行き、6年前に植樹をした桜を見てきました。立派に成長した姿を見て改めて「さくら道を続けてきて良かった」「子供たちが大きく育ってくれて良かった」としみじみと感慨にふけてしまいました。
 お昼荘川桜に着き、直接来られた方と合流し27名となりました。花芽が少なく、まだこれからという荘川桜でしたが、今年の事情を説明し、『てんごの夢』を歌い、必ずまた来年来ることを約束してお別れしました。毎年会う観光協会の方や郵便局の方とも再会することができました。《やっぱり会いに来てよかった…》 昼食はこれもお馴染みのドライブインみぼろ湖。
 それから全員で佐藤良二さんの生まれ故郷【美濃白鳥】へ向かい、佐藤良二さんの顕彰碑とさくら道バスツアーの記念碑をお参りしご報告をしてきました。この公園の一角3年目に植えた、荘川桜の実生の苗は、僕の心のように斜めに倒れてに生えてしまっていました。記念のプレートだけはまだ残っていましたので、また改めて今日のメンバーの名前を記してきました。
 最後は、ここもこれから桜が咲くと言う[九頭竜胡]で歌を歌い、またどこかでの再会を約束してお別れをしました。合計9台車は名残惜しそうに、それぞれの目的地へ向かって走っていきました。くれぐれも無事にお帰り下さい。渋滞に巻き込まれませんように…と祈りながら…





























また僕は何かを托されてしまったようだ

【 こんなことが本当に起こるんだろうか… 】 〜 また僕は何かを托されてしまったようだ 〜  2002年〜20014年の13年間続いた[さくら道バスツアー]が昨年で終わりました。ちゃんとお別れもせず、このまま終わってしまうのは失礼で、申し訳ないと思っていました。今年は有志の皆さんと卒業の報告とお別れを伝えるつもりで、それぞれが〔荘川桜〕に会いに行く計画をしました。《4月29日 正午に荘川桜の下で会いましょう》が合言葉でした。  前日に時間が取れる方は、思い出の[高山]に泊まり交流を深め、次の日に荘川桜に向かう予定でした。僕は前日の朝早く同級生の木下夫妻と滋賀を出発し、名神高速〜東海北陸道を通り高山へ向かいます。時間の余裕があったせいか、湖岸道路を通り米原から高速に入るつもりが、あまりのドライブ日和の心地よさに少々長浜の方まで走って遠回りしてしまいました。養老インターで少々休憩をし、木下夫人が作ってきた朝ごはんを食べるのにはちょっと早すぎたので、もう少し先まで行って食べようと言うことですぐに出発しました。途中、これも思い出の[郡上八幡]に立ち寄ることもあり、1つ手前の〔瓢ケ岳(ふくべがたけ)〕と言う読み方もの難しい小さなパーキングエリアに車を止めました。かわいい木の椅子とテーブルがあり『ここで朝食を食べよう!』と用意を始めようと車から荷物を出そうとした時!後から僕に声をかける人がいました。『関島さん❗️…』どっかで聞いた優しい男の人の声です。驚いで振り向くと、なんとそこに《13年間ずっとさくら道の運転手を続けてくれたJR東海バスの戸谷さん》が立っていたのです。一瞬何のことか理解できませんでした。そして次の瞬間、僕はガーンと頭を殴られたような気がしたのです。自分の心の迷い、浅はかさを見透かされた気がしました。そして《荘川桜》なのか、《佐藤良二さん》なのか…、とにかく僕の想像も及ばない大きな力に何かを伝えられたような気がしたのです。こんな奇跡のような偶然が存在するのでしょうか? 朝の9時前、 今まで入ったことのない小さなサービスエリア。お互いの車がこのタイミングにここに駐車しなければ会うこともなかった針の先ほどの偶然。これは何かの暗示に違いない。僕はそれまで考えていた【卒業】という言葉をもう言えなくなっていました。戸谷さんの後には、いつもさくら道のバスに同乗していた北川さんとバスガイドさんが微笑んでいました。僕は何てことをしてしまったんだろう。申し訳ない!申し訳ない! 誰ともなく心の中で謝っていました… 1年ごとに訪れる今年は花芽の少ない年に当たっていました。2 〜3分咲の荘川桜でしたが、とても可憐で優しく微笑んでいるようでした。僕たちが来てくれたのを喜んでくれたのでしょうか?《てんごの夢》をまた聞いてもらいました。集まってくださったのは27名。久しぶりの再会に笑顔が弾けました。『あなたが夢を紡ぎ 育てた桜たちは 今年も故郷の町で きれいに咲いています』



▼満開の荘川桜の写真は、昨年の第13回のさくら道ツアーの集合写真です。

2015年4月26日日曜日

“高山に想いをよせて” 

“高山に想いをよせて” 作詞・作曲・歌 関島秀樹
1979年4月25日『あじさい寺』でデビューして、目の回る忙しさと慣れない世界で自分を見失いかけた時にふらりと出かけたのがこの高山でした。初めて訪れたこの街は、山に囲まれたひっそりとした落ち着いた佇まいで、僕の心を優しく包んでくれました。楽曲の制作と言うことで、一ケ月も滞在してしまいました。その頃生まれたのが『高山に想いをよせて』です。鎌倉とともにこの高山は僕の歌の出発点かもしれません。


2015年4月25日土曜日

デビュー36回目の記念日に

【 デビュー36回目の記念日に 】 〜 ほんの通過点に過ぎません 〜
イチローみたいに淡々と記録を積み上げられたらいいなぁ〜。今日4月25日は僕のデビュー記念日でした。10年前のこの日、JR福知山線の大事故が起きたということで、今年は特にその特集がずっと続きました。突然前触れもなく、自分の大切な人がこの世の中から消えてしまうという衝撃は、体験した人じゃないと本当のところはわからないと思います。あれもやっとけばよかった。これも言っとけばよかった。いろいろ話しておけばよかった。もっと優しくしてあげたらよかった…。当たり前のように今日と同じ明日が来る事は、本当は約束はされでいない。また今度会ったときでいいさぁ〜。次の機会にね! それが後悔にならないように…。《今日を精一杯生きる!》。そうはいってもなかなか出来る事でもない。生きているという事は、死と隣り合わせなのだ。《今日一日無事生きてきた事は奇跡》なのかもしれない。《人間は後悔無くして生きていけない》んだろうと思う。《今日一日にもっと感謝》しなければいけないなあ。そういう人にいつか近づけるだろうか…。
【まろ】にまたハマってしまった。[あまちゃん]〜 [花子とアン}〜 [マッサン]。今度だけは見ないと思っていたが…。まんまとNHKの朝ドラに引っかかってしまった。また朝寝ができなくなった…。
デビュー記念日の今日は、宇治の〈スリースター〉でささやかなライブを開きました。なんかスタートにいい名前だよね。佐賀、長崎、大分、熊本…九州の方がたくさんいらっいました。店のママさんが偶然にも今日誕生日でした。また1つ楽しい思い出が出来ました。36年目の“出発進行〜” ‼️ 安全運転でお願いしま〜す。‼️











2015年4月21日火曜日

新聞に載りました!

4/19開催【天龍峡温泉第30回健康マラソン記念大会】開会式の“選手宣誓”の様子が、地元の新聞で紹介されました。選手代表は《ふたりの関島秀樹》です。


2015年4月20日月曜日

【天龍峡温泉第30回健康マラソン記念大会】 <選手宣誓>

【天龍峡温泉第30回健康マラソン記念大会】<選手宣誓> 長野県飯田市 関島秀樹 滋賀県大津市 関島秀樹

Posted by 関島秀樹(せきじまひでき) on 2015年4月20日

2015年4月19日日曜日

【 天竜峡マラソン無事完走! 】〜 いっぱいの関島さんに見守られて 〜

【 天竜峡マラソン無事完走! 】〜 いっぱいの関島さんに見守られて 〜
『 宣誓 われわれ選手一同は、天竜峡の美しい自然に“ヒデキ カンゲキ!”しながら、今が青春真っ只中の気持ちを忘れず、楽しみながら決して無理をせず、最後まで走り抜くことを誓います‼️』(原案は飯田の秀樹さんの考案)。2人で心を合わせた〔選手宣誓〕は完璧でした。

本番のマラソンも、前夜の酒盛りの寝不足とお酒が少々残っていながらも、無事完走することができました。スタート前のラジオ体操を指導する方も関島真治さんでしたし、小学生の関島兄弟や何人かの関島さんと出会うことができました。















天竜川沿いの素晴らしい自然に囲まれたアップダウンのコースは飽きることなく目を楽しませてくれました。八重桜や花桃、梨の花が咲いています。街の中にゴミ1つありません。街全体が山に優し
僕のルーツかもしれない[長野県の飯田市]の【関島氏】を訪ねる初めての旅。そのきっかけを作ってくれ、見ず知らずの僕に骨を折ってくれた[飯田の関島秀樹さん]。もう仏さんのようにいい人です。修行僧のように生真面目な人です。僕はその彼を、飯田の関島さんなので“いい関島さん”と呼ぼうかと思いました。でも、僕たちの[横の糸]をつないでくれた彦根の[三恵子おばさん]が甥っ子のことを“秀ちゃん”と呼んでいらっしゃる事を聞いたので、僕もこれから“ひでちゃん“と呼ぶことにしました。なんか弟のような感覚です。おじさんの康治さんも伸子おばさんも喜んでくれているそうです。
1185年 信濃の国を収めた小笠原信濃守長清から始まったこの地の歴史。もともとは居城松尾城内に祀られていた守護神《名古熊八幡神社》の氏神様の【枝宮様】。同氏の人々が1つの神様の下に集結し、またその境内にあるそれぞれの十社の氏神様を崇敬し、祀り、社地、社殿、同族の誇りを連綿と守り続けていらっしゃいます。その春の大祭が偶然にもこの日に行われていました。マラソンの後そのままの格好で急遽そのお祭りに飛び入り参加させていただきました。
伏見稲荷大明神を祭神とする[原田の関島氏]。愛宕神社を祭神とする[峯の関島氏]。富士天白大明神を祭神とする[関島、唐沢氏氏]。ここに写っている皆様は皆【関島さん】です。歴史を感じさせる幟旗。確かに鳥には【関島神社】とあります。お忙しい中、長老の原田の関島伸喜さんにお話を伺いました。この中には関嶋さんもいらっしゃいます。九州に関島氏がいるとは聞いたことがないと言う答えばかりです。まだまだわからないこともたくさんあります。ますます謎は深まり、興味津々です。マラソンの当日と年に1回の大祭日が重なると言う奇妙な偶然もあり、《これはただごとではない!》という気持ちを改めて深く感じました。
あっという間のお別れは、温泉に入り、最後はやはり信州そばでしょうか?おいしい おいしいお蕎麦をいただき、店主の方にお礼を言って帰ろうとふと見上げると【島津亜矢さん】が微笑んでいました。ここには亜矢ちゃんの大応援団の方がよくいらっしゃるそうです。ダメ押しです。この旅は、最後まで僕の縁を繋いでくれて、幸運の神様は真から楽しんで応援してくれているようです。改めてゆっくりと訪ねなければいけないなあ。親父が元気なうちに…。今度は[縦の糸]を紡いでみよう。

2015年4月18日土曜日

【 もう1人の関島秀樹 】 〜 影武者かそれともクローンか… 〜

1985年、その男は15歳の中学生だった。そして今年彼は45才になった。運命の女神はこの30年間、じっとこの時が来るのを待ち構えていた。30年前は僕の番組に、彼の彦根に住むおばさんからの投稿があったのだ。《関島秀樹という同姓同名の中学生の甥っ子が長野にいます》。「へ〜 、なんじゃこりゃ ❗️」普通はそれで終わる話です。ところが僕が1年ほど前からFacebookを始めたものだから、その甥っ子がアクセスしてくれました。僕もとても印象でしたからよく覚えていました。その話を番組で話したらまたそのおばさんがアクセスしてくれました。30年前もそして今も奇跡的におばさんは僕のラジオの話を聞いてくださったのです。その話は30年間続いていたのです。
僕の親父が近頃ちょっと弱くなってきました。もう関島家のルーツを探るのは今しかないと思い長野県飯田に来ました。その甥っ子がいろいろと手配をしてくれて、飯田の関島家と感動的な出会いをすることができました。まずは昨日の[中日新聞]。『30年ぶりの同性同名の2人が出会う‼️』という記事を載せてくれました。

果たして4月18日の朝、関島家のご家族と対面することができました。ご自宅へお邪魔しました。。お父さん、お母さん、奥様、長男、長女、次女… 僕が到着するのをみんなで出迎えて下さって 、[水引きで作った花束]、心づくしの手料理で歓迎して下さいました。胸がいっぱいになりました。その甥っ子は45歳になっていました。この世にもう1人【関島秀樹】がいたのです。何か不思議な感じがします。そしてそのご家族…。ただただ苗字が一緒だという事だけですが、なんだかずっと会えなかった遠い親戚にやっと会えたような気がしました。【飯田】と言う街が急に親近感を持って近づいてきました。



その後地元のFM局に出演させていただきました。生歌はやっぱり【家族】です。ちょっとした関島フィーバーです。すべて関島秀樹さんがセッティングしてくださいました。



その後、今日出会ったその他の関島さん達です。それぞれは親戚関係ではありません。〈花火〉を作っていらっしゃる関島さんご兄弟。




〈水ひき〉を作ってらっしゃる関島さん。ここでは家紋のことも教えていただきました。飯田は水引の生産量は日本一です。消防団の関島さんや音楽教室の関島さんなどなど、こちらでは関島さんがいっぱいです。



ここにはまだ桜が咲いていました。花桃や梨の花も街に溢れています。落ち着いた美しい街です。《川本喜八郎》の人形美術館がありました。飯田では毎年{世界人形フェスティバル]が開かれているのです。名古屋の[紙風船][フレッシュ]の皆さんともご縁がありました。


宿は、山田洋次監督もお気に入りだと言う、静かな渓谷の隠れ宿《峡泉》です。すぐ下を天竜川が流れています。この川が、たびたび訪れる〈浜松〉につながっているのです。


【ご縁】はどこまでも続いています。夜は感動の一日を振り返り、酒盛りとなりました。もう明日のマラソンの事は忘れています。大丈夫かなぁ…。なんと明日は関島秀樹さんと2人で選手宣誓をすることにもなってしまいました。大変なことになりました。我々の出会いの後日談を期待している人もいっぱいいらっしゃいます。しばらくは関島秀樹の話題で持ちきりになりそうです…。