3月9日、10日と今住む滋賀県大津市で、東日本大震災、そして熊本地震の被災された皆様へ、鎮魂の祈りと復興への願いを込めたコンサートを行いました。例年ですとその後そのまま車で被災地へ向かいました。ここ5年は千葉県旭市飯岡で追悼のコンサートを行いました。その後茨城、福島、宮城、岩手を1週間から10日ほど車で都合18回ほど訪れたこの7年間でした。2011年3月11日の東日本大震災から3ヶ月後に最初に被災された方と出会ったのは、埼玉県加須市にある[旧騎西高校]に避難されている〈双葉町〉の皆さんでした。〈いわき市〉の避難所、[土湯温泉]に避難されている双葉町や〈浪江町〉のみなさん。津波に流されてまだ何も手付かずの〈相馬市礒部〉〈釜石第一小学校〉〈大船渡〉〈陸前高田〉〈気仙沼 〉〈石巻中里小学校〉〈東松島市コミュ二ティーセンター、大塩、赤井、小野〉… 3ヶ月たってもまだ公民館や学校の体育館での避難所生活で、「命が助かっただけでも幸せです」とおっしゃって、配給の冷たいお弁当を食べていらっしゃいました。ほとんど手探りで、誰にも知られずで、気遣いながら、自問自答しながらでも何千人と言う方に出会いました。「よぐこんなとごまで〜」「ありがとう、初めてゆっくり歌を聴きました〜」「初めて声を出して泣けました〜」「少し前に向かって歩いていこうと言う気になりました〜」そんな声をたくさんたくさんいただき、僕の方が励まされました。「また会いましょうね〜!」「頑張っててくださいよ!」そう言って再会を約束して別れました。訪れるたびに、「仮説住宅に移ります!」「復興住宅が当たりました!」「子供たちと一緒に住むことになりました!」少しずつ生活が明るく、希望が見えて来てるかなあ〜 と感じていました。
今日は初めてゆっくりと3月11日の今をテレビで見ています。訪れた懐かしい場所ばかりです。元気な、明るい顔もたくさんありました。あの瓦礫はなく、新しい道路ときれいに区画された新しい土地や復興商店街、立派な復興公営住宅が映つし出されます。新しい学校も魅力的です。でも本当の生活の匂いやエネルギーは感じられません。これもテレビのカメラが回っているほんの1部です。いろんな方がコメントを出しています。僕が出会った、ほとんど取材も来ないような人たちは、まだまだ深刻な生活の方たちが多くいらっしゃいます。声を出さない、人に頼らない人もたくさんいらっしゃいます。僕の歌がどれくらい力になれるかと思っています。昨年別れる時に、『もう僕の歌が必要にならないくらいにならなければいけませんよね!』『もうこれからは、僕の歌で復興応援なんておこがましいです!』それぐらい皆さんが普通の生活に戻ってほしいと言う願いを込めて笑いながら話しました。もう3月11日に合わせて歌う必要は無いのかなあと考えています。もちろん僕の歌を待っている方がいらっしゃれば喜んで伺います。遠慮なくまたおっしゃってください。でも今年はありませんでした。仮説に住む人も少なくなりました。この時期はいろんな人がいらっしゃるので、僕が行かなくても大丈夫かなと思っています。僕もこの時期に無理して動くこともないかなぁと思っています。大変な生活はこれからもずっと続くわけですから、いつでも別の機会に伺うことにしました。僕が危惧していたように… 安全な街創りが最優先で、防潮堤が海を遮り、かさ上げした土地が風景を一変させてしまいました。きれいな建物が並んでも心が通わないと愛着は湧きません。7年間町を離れた人たちがまた帰りたいと言う愛しい町になるでしょうか…。原発の近くの町はなおさらです。まだまだ大変なのです。どうぞくれぐれも元気でがんばっていてください。また必ず伺いますから… どうぞお元気でいらして下さい。ずっと皆さんの事忘れませんから… ずっと皆さんのことを思っていますから… 《誓春》を忘れない❗️
2011.6.初めて訪れた時の様子です。 |