【 10月22日は“ばってん荒川さん”の10年忌 】〜 今日は静かに振り返っています 〜
「どうせ俺たちゃ 先に逝くとだけん… お前は 思うたとおりに 生きたらよか!」そんな歌詞を作らなければよかった。そんな歌詞をばってん荒川さんに歌わせるべきではなかった。今はそれを僕自身が歌っている。残酷な言葉だけれども、本当は順番通りに行くのが幸せだ。それにしても69歳はあまりにも若すぎた。これからが本当の“お米婆さん”の年になるはずだったのに… 。
僕が24歳でデビューした時は、17才年上のばってん荒川さんは41歳でした。熊本のスーパーエンターティナーで人気絶頂でした。ばってんさんがステージに登場するだけでその場の空気が一変するのです。ひと言話すだけで爆笑の渦です。必ず社会情勢や時事の話題を織り込んで、弱い立場の人の味方でした。夫婦や親子の情愛を話して、笑っているうちにいつの間にか泣けてくる時がよくありました。そして一転、歌う時は男っぷりのいい二枚目の九州男児でした。「父ちゃん母ちゃんな元気しとらすね!」いつも僕の両親のことを気にかけて下さっていました。「こっちゃん来て、甘かつどん食べんね!」誰彼と、隔てなく優しく接して下さいました。自分は決して偉ぶらない。偉そうに威張ってる人が大嫌いでした。 芝居や仕事、礼儀作法や人の道にはとても厳しく、ズバズバと、時には真顔でまた時には笑いながら核心をつくことを言う一方で、普段は物静かでシャイな方でした。この人しかいない!と言う人に「帰らんちゃよか」に命を吹き込んでいただきました。もう21年前です。そしてこの人じゃなければ!と言う[島津亜矢]さんに育て広めてもらいました。もう12年目になりました。10年前の葬儀の時には、ぶっつけ本番で初めて僕のギターの伴奏で、島津亜矢さんが[ばってん荒川]さんへお別れの“帰らんちゃよか”を熱唱されました。その2年前に、3人で歌った“帰らんちゃよか”が最初で最後のコラボレーションとなってしまいました。これ以上ないお二人に歌っていただき、本当に幸せな『帰らんちゃよか』です。ばってん荒川さんが今いらっしゃったら、熊本地震からの復興にどれだけ大きな力になっていただろうと残念でなりません。もう二度とこんな方は現れないでしょう。ばってん荒川さんに思いを馳せ、感謝の気持ちを噛み締めつつ、恥ずかしくない生き方を重ねて行こうと改めて心に誓うこの日でした。ありがとうございました。
「どうせ俺たちゃ 先に逝くとだけん… お前は 思うたとおりに 生きたらよか!」そんな歌詞を作らなければよかった。そんな歌詞をばってん荒川さんに歌わせるべきではなかった。今はそれを僕自身が歌っている。残酷な言葉だけれども、本当は順番通りに行くのが幸せだ。それにしても69歳はあまりにも若すぎた。これからが本当の“お米婆さん”の年になるはずだったのに… 。
僕が24歳でデビューした時は、17才年上のばってん荒川さんは41歳でした。熊本のスーパーエンターティナーで人気絶頂でした。ばってんさんがステージに登場するだけでその場の空気が一変するのです。ひと言話すだけで爆笑の渦です。必ず社会情勢や時事の話題を織り込んで、弱い立場の人の味方でした。夫婦や親子の情愛を話して、笑っているうちにいつの間にか泣けてくる時がよくありました。そして一転、歌う時は男っぷりのいい二枚目の九州男児でした。「父ちゃん母ちゃんな元気しとらすね!」いつも僕の両親のことを気にかけて下さっていました。「こっちゃん来て、甘かつどん食べんね!」誰彼と、隔てなく優しく接して下さいました。自分は決して偉ぶらない。偉そうに威張ってる人が大嫌いでした。 芝居や仕事、礼儀作法や人の道にはとても厳しく、ズバズバと、時には真顔でまた時には笑いながら核心をつくことを言う一方で、普段は物静かでシャイな方でした。この人しかいない!と言う人に「帰らんちゃよか」に命を吹き込んでいただきました。もう21年前です。そしてこの人じゃなければ!と言う[島津亜矢]さんに育て広めてもらいました。もう12年目になりました。10年前の葬儀の時には、ぶっつけ本番で初めて僕のギターの伴奏で、島津亜矢さんが[ばってん荒川]さんへお別れの“帰らんちゃよか”を熱唱されました。その2年前に、3人で歌った“帰らんちゃよか”が最初で最後のコラボレーションとなってしまいました。これ以上ないお二人に歌っていただき、本当に幸せな『帰らんちゃよか』です。ばってん荒川さんが今いらっしゃったら、熊本地震からの復興にどれだけ大きな力になっていただろうと残念でなりません。もう二度とこんな方は現れないでしょう。ばってん荒川さんに思いを馳せ、感謝の気持ちを噛み締めつつ、恥ずかしくない生き方を重ねて行こうと改めて心に誓うこの日でした。ありがとうございました。