〈弘化二年〉の裏書がある箱がいくつも出てきたので1845年でしょうか。と言う事は、今年でちょうど170年なのかなぁ~?。今のところ、この家がいつ建てられたかはハッキリした年がわからないのです。僕の父[慶典](けいてん)が生まれた実家です。小さい頃よく遊びに来ていました。この大きな〈栴檀の木〉は父が小学校に入るときにここに自然と生えてきたそうです。その時ちょうど自分の背丈位と言ってましたので、ひょっとしたらこの木は、父と同じ歳(87才、今年母と共に【米寿】のお祝いです)かもしれませんね。4月4日の[梨の花ウォーク]の日にお祓いをし取り壊し始めました。いとこの[茂子さん](荒尾高校45年卒の姉と同級生)ご夫妻と最後の記念撮影に収まりました。
僕は運命や宿命や魂を信じるわけではありませんが、このようなことがあると何かに導かれているような気がしてなりません。個人的な話で少し長くなりそうですので興味のない方はどうぞご退席されて下さい。
祖父の[増男]は【梨の創始者】で、助役までやりました。レコーディングが終わりデビューを待つ間に荒尾で最後を看取りました。1979年1月14日 91才でした。妻[須磨]は59才で既に亡くなっていまして僕は全く記憶にありません。祖父の趣味は短歌で、俳号は[梨香]。祖父の愛した大好きな梨のイベントの日に、一生を過ごした家の取り壊しが始まりました。
遠く離れて滋賀で生活していますので、まさかその場に立ち会えるとは思っていませんでした。たまたま天気が悪い日が続きふと立ち寄った晴れ間の日に(4月8日)僕もふとできた時間に気になって家を見に行ったとき、土の中から偶然にも戦争で亡くなった叔父からの手紙や戦死を知らせる電報を探し出すことができました。《満州》で飛行練習中に事故で亡くなったのは聞いていました。昭和17年8月12日、23歳でした。奇跡のような偶然が重なりその手紙類が見つかりました。その日晴れにも関わらず取り壊し工事が中断していたこと、その後大雨が降り、もうその日じゃなければ見つけ出すことができませんでした。僕は、叔父が呼んでいたんだと思いました。父はもともと無口ですし、戦争の事や自分の戦死した兄の事はほとんど話したことがありませんでした。今になっては誰からも直接話を聞くことはできません。残されたこの手紙類が、叔父の【生きた証】を語る唯一のものだったのです。叔父のささやかな〈願い〉だったんじゃないでしょうか。悲痛な〈叫び〉だったかもしれません。誰かに伝えたかったんだと思います。このまま忘れ去られるだけでは悲しすぎます。《命をかけて守ったものは何だったんでしょうか》。少しでもその【甲斐】を見つけ出さなければ浮かばれないと思います。そんな思いを残したまま亡くなった人たちがどれだけいたでしょう。遺骨さえ祖国に帰れない人たちがたくさんいらっしゃいます。戦後70年、知らされなかったこと、忘れさられたことが少しづつと分かってきています。でもそれを直接語れる人はもう、そうは残っていません。70年前の今、もうすでに【沖縄】には米軍が上陸し、日本は敗戦に向かって誰も止められない泥沼を進んでいます。本土では日に日に空襲が激しくなっています。荒尾では7月26日の夜から27日の朝方にかけて大規模な空襲があり、母は焼夷弾の破片を被弾し生死の境をさまよいました。16才でした。〈大正区の実家〉は全て焼けてなくなりました。父は、〈普源寺の実家〉の屋根に焼夷弾が落ちたの必死で消したそうです。ペリリュー島の話。父子桜…。僕は何かを託されているような気もしています。4月18日、関島のルーツを訪ねに長野県飯田に向かいます。関島神社があるそうです。19日は《天竜峡マラソン》に参加します。天竜峡の名前の由来に関島家が関わっているそうです。まだまだ知らない話がたくさんありそうです。わくわくぞくぞくしています。何かが大きく変わるかもしれません。《関島秀樹ファミリーヒストリー… 》