世界遺産にふさわしいと勧告をいただいた翌日と言うことで、僕も昼から【万田抗】を訪ねてみた。まぁ大変な人出。駐車場は満車状態。一昨日は200人、昨日は300人、そして今日は天気にも恵まれ無料開放と言うことで1,500人もの方がいらっしゃったそうだ。マスコミの力は凄い❗️。それにしても話題になったからといってすぐに予定を変更したり、急に計画を立てたりして世界遺産の場所を訪れる人たちの熱意も凄い❗️ 突然のお客さんの急増に、少しは予想はしていたとは言え駐車場は満杯、16人のボランティアガイドの人も大忙し。マスコミの取材も急遽飛び込んできたりして、それに対応する職員やコーディネーターがいるわけでもないので、てんやわんやの大忙しだ❗️
これを機に、日本の近代遺産としての炭鉱の役割を知ってもらうのもありがたいが、ここで生活していた人々のことを思い出してもらうのもうれしい。実際に懐かしそうに語り合う年配の人たちもちらほら見かけられた。僕の小さい頃の昭和30年代は、ここ荒尾、大牟田の町は活気に溢れていた。炭住の屋根にはテレビアンテナが林立し、炭鉱から引かれたお湯で1日中お風呂に入ることができた。学費免除の[鉱山学校]もあった。万田抗のある倉掛の街や県境には映画館が立ち並び、パチンコ屋は24時間営業、歓楽街も大変な賑わいだった。危険と隣あわせの鉱員の給料はそれだけ高給で、15日の支払い日には長い列ができ、貰った給料を持って街に繰り出す人も多かったそうだ。万田公園のお花見、社宅の運動会、こくんぞさんのお祭り、巡回映画、競馬場、炭坑電車、労働運動…。大牟田で生まれた《荒木栄》の作った[労働歌]は全国へと広がっていった。『がんばろう』は代表的な歌だ。楽しいことも辛いことも、良いことも悪いことも一緒くたんになって、とにかくエネルギーが満ち溢れていた。昭和35年の《三池闘争》、昭和38年11月9日土曜日の午後3時12分に起こった《三川抗炭塵爆発》では458名も尊い命が失われ、多くの負傷者と一酸化炭素中毒者を出した。もうその頃にはすでにエネルギーの主力は石炭から石油に移っていて街の勢いも薄れていった。でも僕の小さい頃の記憶はとても楽しく、華やいだものばかりだった。
その頃の楽しみの1つ、有明海の〈海水浴場〉と〈潮干狩り〉。このゴールデンウィークにはその潮干狩りが一般開放されていて、たくさんの人で賑わっていた。ここは《ラムサール条約》と契約をした、世界でも有数な〈渡り鳥の生息地〉で、荒尾の誇るもう一つの宝です。《世界の人が訪れるふるさとを、世界に誇れる故郷にできるだろうか…》 先人が築いた遺産が認められたとただ喜んでばかりはいられない…