2015年3月11日水曜日

【 勝った】 〜 暴風雪一過…富士山は微笑んでいた〜

昨年の突然の積雪での足止めに続き、今年も暴風雪が吹き荒れ東名は途中通行止めとなった。早めになんとか雪の多い地区を通り抜け、さらに雪の多い所の手前で仮眠をとった。読みが見事に当たり、早朝の素晴らしい富士山に再会することができた。途中足止めを食うこともなく、朝を待って動き出した車の交通集中で、都心に入るときに渋滞したが、何とか予定通り千葉の旭市飯岡に到着することができた。大津を出て17時間と30分。約600キロの長旅だった。




この町で14名の方が亡くなった。お二人の方は未だに行方不明のままだ…。2時46分に地震が起きて、津波が5時26分にこの街を襲ったのだ。毎回行われる【追悼の会】は、もともとJA飯岡があった跡地だ。津波で2メートルほど浸水し1階にあった大きな時計は5時26分をさしたまま今も止まっている。昨年から1年の間に《避難塔》と立派な《堤防》ができていた。もう前のように、街を歩きながら水平線に沈む夕日を見る事はできない。ハード面には限界がある。地震の揺れから津波が来るまである程度の時間はある。地震が来たときにの知識と心構え、そして実際に津波が来ると予測されたときに、いかに早く、効率よく、すべての方と連絡が取れて、安全な場所へ避難させることができるか? それをいつも頭の片隅に持って、シミュレーションして、どうすれば被害を最小限に食い止めることができるか!それを一度考えておきたいと思う。日本でも有数の素晴らしい夕日が見えなくなった…。(もちろん高い所や新しくできた堤防の上からは素晴らしい夕陽を眺めることができる)海を愛し、海と共に生きてきた人たちから、日々海がみられないのは辛いだろうなぁ…。会場では地元の人形劇団の方による[稲むらの火]の上演。コールエコーのママさん達のコーラスの美しい歌声。僕のコンサートや地元の方の体験談なども披露しながら5時26分、津波が襲来した時刻に《希望の鐘》を鳴らし、皆さんで黙祷を捧げ、マリーゴールドの花で献花をした。飯岡の皆さんは津波を語り継ぐと同時に、花の町にして街全体に元気が戻ってくるようにと活動を続けていらっしゃる。この会に参加させていただいたのは3回目となりました。ずいぶん顔なじみも増えて、僕に声援を送ってくださいます。いつもありがとうございます。お世話になってばかりで何もできませんが、飯岡の素晴らしさをあちこちで伝え、いつか僕のファンのみなさんとこの町を訪れることができればなぁ〜思っています。各地で追悼の会が行われました。悲しみが、恐怖がよみがえってきました。今日も涙を流される方をお見かけしました。大切なものをなくした方の心が癒される日は来るのでしょうか…。亡くなった方、行方不明の方、ご冥福をお祈りいたします。被災された方の、少しでも早く、心が安らげる家や地域の復興が進むことを願っています。